1月 『狼たちの午後』を観ました。

『狼たちの午後』

舞台は1972年のニューヨーク、ブルックリン。そこで3人の男が銀行強盗を決行する。
 しかし、この男たちは犯罪に関してはズブの素人の上に、計画自体もかなり杜撰。しょっぱなから仲間の内の1人は怖気づいて逃げ出し、その後もおたおたしているうちにあっという間に通報されて、銀行は警察によって包囲されてしまう。
 そして、銀行強盗は銀行員9人を人質にして銀行に立てこもることなるのだが、事態が膠着していくに従って、だんだんと奇妙な事態に陥ってゆく。はじめはおびえていた人質たちは強盗にたいして親近感を抱くようになるし、銀行周辺に集まった野次馬たちは彼を英雄視し始める。さらに彼の愛人であるという男が現れ、この事件の目的が彼の性転換手術費用を稼ぐためのものであることが判明する。
 実際に起きた事件を元にしたものらしいが、そうであるゆえに時代も国籍も違う僕には難解だった。難解だった点を箇条書きすると次のようになる。
・銀行強盗の内の一人ははベトナム帰還兵であり、それがゆえにサイコパス(快楽殺人者)になってしまったという設定だが、ベトナム戦争とその後の戦争神経症の悲惨にたいするリアリティがぼくにはうまく掴めなかった。
・銀行強盗が「アッティカ!」と叫んで野次馬たちから喝采されるシーンがある。作中ではこれをきっかけに銀行強盗は英雄に仕立て上げられてゆくのだが、この流れがうまく分からない。ネットで調べたところ、これはアッティカ刑務所という所で起きた囚人の暴動事件に対して、鎮圧の過程で何人かの囚人が殺された事件を示しているのだそうだ。しかし、この事件の詳細についてはそもそもどちらが悪いのかも含めてよく分からないし、銀行強盗が正当化されるほど当時は、警察や看守に対する不信感があったのだろうか。その辺がよく分からない。
・終盤、銀行強盗がホモセクシャルであり、この事件は愛人の性転換手術費用を稼ぐためのものであることが判明するが、当時のホモセクシャルに対する差別の度合いが分からないため、うまく犯人たちに同情することができない。どうやら当時は、性同一性障害だとされると精神病院に収監されて薬づけにされてしまっていたらしいということはわかるが、それ以上のリアリティはうまくつかめなかった。
 おそらく、この映画公開当時のアメリカ人にとって、これらのことは説明するまでもなくリアリティをもって知っていたことなのだろう。また製作側にとってもこれらの背景を説明することはあまりに映画を冗長にしてしまうし、なによりそうやって話を一般化することは、彼を英雄視した野次馬たちや当時のマスコミと同じ轍を踏むことになってしまう。そう考えると、落とし所としてはベストだ。
 映画のリアリティというものが、ここまで作成された時代や地域によってきめられてしまうものなのかを知る意味ではかなり考えさせられる作品でした。

★★☆☆☆

11月 『少林寺』を観ました。

――『新少林寺』という映画が公開されるらしい。
 それをぼくは日比谷線恵比寿駅のポスターで知った。なんでも今(2011)から29年前に『少林寺』という映画が大ヒットしていて、今回の『新少林寺』はそのリバイバルなのだそうである。
 恥ずかしながら、このポスターを観るまで、ぼくは『少林寺』という映画の存在を知らなかった。しかも、ポスターの説明文によれば、『少林寺』は当時爆発的なヒットを記録し、世間に一大「少林ブーム」を巻き起こしたカンフー映画の歴史的金字塔なのだそうだ。
――そんな名作を見逃していたとは、不覚だった!『新少林寺』はともかくとして、『少林寺』のほうはぜひ見ておかねば!
 そんなわけで観始めたわけだが、正直、わけがわからない(笑)。特にストーリーが。
 冒頭、主人公は父を地元の実力者らしき男に殺される。それで、主人公は少林拳を習って父の仇打ちをしようと考える。しかし、少林拳は坊さんの拳法であり、それを使って人を殺めることは掟で禁じられていた…。
 と、ここまで読んだ人は、主人公はさぞかし親の仇打ちと少林寺の掟の間で思い悩むことになるだろうと想像するかもしれない。しかし、そうはならない。主人公は一応は悩んでみせはするものの、結局は仇打ちを始める。さらに、主人公の師匠や仲間たちも、はじめは「殺生は掟に反するから、仇打ちなんてしてはいけない」とか言っていたはずなのに、いつのまにかそんな話はうやむやになり、最終的には「悪い奴は殺されて当然なんだっ!」という仏門にはあるまじきイデオロギーのもと大殺戮をおっぱじめる。最後はもう戦争です(笑)。
 そういう意味では大学の映画同好会でも、もうすこしましな脚本を練るだろうと思える映画。
 ただカンフーアクションは文句なしに素晴らしく、登場人物たちのアクロバティクな動きの数々は単純に感動した。もちろん、ワイアーアクションが技術的に残念だったり、あとづけの効果音が登場人物の動きとずれていたりと、詰めの甘い部分も多々あった。しかし、それを差し引いて素晴らしものは素晴らしい。
もしかすると、ここにこの映画の本懐があるのかもしれない。ここまでストーリーが支離滅裂で
も、それを凌駕する少林拳の魅力!それこそがこの映画が伝えたかったことなのかもしれない。
すくなくともぼくはこの映画を観たことで、自分の「カンフー好き」を再認識した。そういえば、『少林サッカー』はぼくのベスト映画のひとつだし、世間では世紀の駄作との呼び名の高い『少林少女』ですらぼくは意外と楽しんだものだ。きっと、ぼくは少林拳が大好きなのだ!
かといって、『新少林寺』なる映画をみにいくかどうかはまた別の話であることはいうまでもないのだが…。

11月 だれかを非難したくなった時には、

 最近、パソコンスクールに通おうと思って、手当たりしだいにいろんな所を巡っています。

 パソコンスクールといってもその講義スタイルは様々で、綺麗なお姉さんがマンツーマンで教えてくれるところから、いかにもITボーイな感じの青年が自慢げに教えてくれるところ。はては、ただ単にDVDで自習するだけのところまで、スクールによって全然違います。

 ただ、どこのスクールに対しても一つだけ言えることがあります。

 それはレッスン料が法外に高いこと。

 正直な話、かなりいいパソコンが1台(場合によっては2,3台)購入できるくらいの値段がします。

 これはどう考えてもおかしな話で、例えば車の免許を取るのに、車1台分(100万)の金額がかかるようなものです。

 大体、パソコンソフトを開発した会社には、開発したソフトの使い方を民衆に啓蒙する社会的責任はないのでしょうか?(ルールを決めたのはおまえだろっ?!)

…。

そんなこんなで、最近は、パソコンスクールへの罵詈雑言をつぶやきつづける毎日です。

それにしてもこういう罵詈雑言というものは不思議なもので、はじめのうちはパソコンスクールにのみ向けられていたはずなのに、いつしかどんどん他のことにも飛び火します。

それで今日思いついたのが、大学4年というあの無駄な日々への恨みつらみです。

よくは知りませんが、大学の情報処理の授業は、今もぼくがうけたころのままなのでしょうか?

たしかぼくが大学生だった時の、情報処理の授業はひどいもので、ワードとエクセルの初歩中の初歩ぐらいを半期でちょこっと勉強するだけでした。今思えば、かなりいいパソコンだったし、いろんなソフトもはいっていたような気がします。その中には、DTPとかCADとかの高価なソフトも入っていたような気もしますが、それらを教える講義はありませんでした。あれはいったいなんだったのか。

今思えば、TOEICとかミクロ経済学なんかの何倍も価値があります。学費返せ。バカヤロー!

と、どこぞのクレーマーおじさんみたいにウジウジと文句を言っていたら、ご学友の方から、「お前、そんなこというけど、大学行ってなかっただろ?だいたい、DTPCADの講義があったとして、お前はその授業を受けたか?」というご指摘をうけました。

たしかにそうです。あのころのぼくにとって、パソコンとはエロサイトを閲覧するための大人の絵本であり、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。すくなくとも、パソコンについてひとつ勉強してやろうなんて気持ちはさらさらありませんでした。

結局、一番悪いのはぼくだったのです。納得!

うして、ぼくはまた死にたくなりました。

――だれかを非難したくなった時は、とことん非難すればいい。どんなに赤の他人を非難しはじめたとしても、いつしかそれは自分に返ってきて馬鹿らしくなるから。

たしか名作『グレート・ギャツビー』の書き出しにはこれと反対のことが書かれていた気がします。

11月 いつもどおりがいちばんうまい

 先日、この日記で気象予報士の勉強をはじめたことを書いた。

 あれから、はや1カ月。当然のごとく、勉強は進まない。一応、テキストらしきものを購入し、毎週日曜午前はそれを読むことにしているのだが、まったく何がなんだかわからない。

 特に閉口してしまうのは、その専門用語の多さである。数学も物理もまったくわからない人でもゼロから学習できるという触れ込みのテキストを、一応は購入したはずなのだが、実際読んでみるとどう考えても一般ピープルが知るはずもない言葉が何の説明もなく登場してくる。

 たとえば、コリオリの力。これは言いかえれば、地球が自転することで生じる見かけ上の力のこと。ちょうど回転する大きなお盆があって、その上を直進することを想像してみよう。その場合、歩いている本人にとっては直進しているつもりでも、それを外から見た場合、彼の歩行軌道は地面のお盆の回転にあわせてカーブしているはずである。それをコリオリの力というらしい。

 このコリオリの力という言葉の意味ひとつを理解するために、俺はググりにググりまくって30分は浪費した。もちろん、わからない言葉はこれだけでなく、ほぼ1ページに1回ぐらいの割合で登場する。きっと理系の人にとってしてみれば、これくらいは一般常識の範疇なのだろうけれど、それにしてもこれで「文系でもわかる!」と帯に標榜するのはいささか誇大広告だろうと俺は不満に思うのである。

 とそんなことをグダグダ思いつつ、今日(日曜)の午後は、ちょっとしたヤボ用で銀座に行ってきた。三越の真横のビルで用を済まし、それからふらふらと有楽町まで歩いたのだが、なんど歩いてもこの町にはアウェイ感しか感じられない。一面ガラス張りのビルや窓が一切ない大きな長方形金属の塊みたいなビル。果ては大きなリボンでプレゼント用のテーピングがほどこされたような外観のビルに、明大前の雑然とした街並みでその青春時代の大半をすごした俺が、何の親しみを感じないどころか恐ろしくて近寄れないというのも、このアウェイ感の原因のひとつではあると思う。しかし、それ以上に、俺の中で銀座という通いなれない土地を新たに攻略するよりは、通いなれた新宿・原宿・渋谷あたりでいつも通りの日常を送っていきたいという気持ちが強いというのが、主な原因なのだろう。

 そういえば、SONYの新製品ヘッドマウントディスプレイも、発売前まではあれほど心躍らせていたのだが、実際発売されて店頭で体験してみると、その新技術に驚くというよりは、まだまだ商品としては未熟なままの部分ばかりが気になってしまい、購入するまでには至らなかった。

 もしかすると、気象予報士の勉強もそれと同じなのかもしれない。気象の話が難しいというのもそれはそれで一つの事実ではある。でも、それ以上に、俺自身がこの新しい分野の知識に対して貪欲に摂取していこうという気持ちがないというのもそれはそれで真実である。

 そんなことをかんがえながら、俺は有楽町にある紅鹿舎(ベニシカ)という元祖ピザトーストのお店に行き、いつものようにピザトーストをほおばる。もう何年もまえから有楽町に行った時には、いつもここでピザトーストを食う。ほかにもおいしそうなお店もあるにはあるが、冒険したくないのでここで食べる。ああ。ああ。

 いつもどおりが一番うまいのだ。

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11月 最近ぼくがほしいもの

 最近ふと、欲しいなあと思ったモノ。

 それは主に2つある。

 一つ目は、カレンダー。それも日めくりカレンダー。一日の終わり。仕事から疲れ果てて帰ってきて、ビールを飲みながら、日めくりカレンダーを一枚だけはがす。そして、残りの厚みを見つめながら、あとどれだけやり過ごせば一年がすぎるのかという思いをはせる。そんな日々に憧れる。

 二つ目は、スマホ。ずっと馬鹿にしていたが、最近、妙に欲しい。たとえば、日曜の昼下がり。ふと立ち寄った喫茶店でナポリタンがうまかったりしたとき。道端にへんてこな看板を見つけたとき。公園で奇妙な形の昆虫を見つけたとき。そんなときに、それをスマホのカメラで撮り、画像をツイッターやフェイスブックにアップしたい。そうやって、日々生きていく中でのちょっとした気づきやおかしさを記録していきたい。

 と、ここまで書いて、自分の後ろ向きさ加減に、ふと嫌気がさす。カレンダーだスマホだといっているが、結局のところ、ぼくは日々を無難にやり過ごす技術がほしいにすぎないのである。

 もちろん、もうすぐ29歳の誕生日を迎えるような男に、今更波乱万丈はもとめるべくもないことは先刻承知である。とくに、このぼくは、世界一かわいそうなこのぼくは、あまりに平穏な日常の素晴らしさ、かけがえのなさを知りすぎている。もう、なにも事件は起こってほしくない。そんな自分に同情したいという気持ちは自分のことながらわからないでもない。

 しかし、それでもやはり思うのは、もう少し日々を前向きに過ごして行けたらなあという事である。たとえば、何らかの目標をもって、日々イキイキと暮らしていけたらどんなにいだろう!

 もちろん、そんなのはぜいたくである。この世の中に、そんな人がほとんどいないことをぼくは知っている。多く人は、やりたくもないことを深夜までやらされ、たまの休日は一日中寝ているというのが実際のところであろう。しかも、今の生活に嫌気がさしていることは間違いない割には、仕事をやめてまで打ち込める「ほんとうにやりたいこと」とやらは一向にみつかる気配もない。結果、ただだらだらとサラリーマン生活だけがつづく。そして、そのうち結婚をして、子どもでも生まれれば、もう後戻りはできず、いやでも一生働き続けなければならなくなる。それが平均的な日本人男子の生涯である。

かくいうぼくだって、最近じゃ、あんなに好きだった読書にもそんなに熱心になれずにいる。20代も前半のころは、一日中家に引きこもって読書をしていてもそれだけでで大満足だったのに、最近ではどうも読む気がしない。読書なんかしても、お金になるわけじゃなし、異性にもてるわけでもない、さらに言えば日本がよくなるわけでもない。そういう風にかんがえだすと、読書という行為が急にひどく無意味に思えてくる。むしろ、家にこもって読書なんかするより、近所でパチンコでもしていた方が生産的なんじゃないかとさえ思えてくる。そうなってくると、もう駄目で、急に本を放り出して、散歩と映画とゲームセンターに時間と金を浪費する。最近じゃ、そんな毎日です。

そんな日々から抜け出すためにも、今この文章を書きながら、パソコンスクールなんか通うのはどうだろうと思い始めた。別にパソコンに詳しくなりたいというのではない。そうではなく、ただなんとなくなんでもいいから、人から物を習うというのがしたいのである。読書という自学自習のむなしさに耐えられない昨今、ひとに教えてもらうのならば、そこにコミュニケーションも芽生えてさぞかし愉快であろう。そんなことをおもうのだ。

 それにつけても、ぼくは孤独だ。ぼくは根暗だ。ぼくはオクテだ。ぼくは友達が少ない。ああ、ああ、ああ。おうおうおう。

11月【読書日記】意識は実在するか?

永井均『なぜ意識は存在しないのか』(岩波書店)は、こんな挑発的な一文から始まる。

――心は、心の中でも特に「意識」と呼ばれるものは、実は存在しません。これは誰でも知っている自明のことです。

 それで興味を持って購入したのが、4年前。しかし、購入当初はその難解さ加減が著しく、途中で放り出したままになっていた。
 それを今年(2011年)になってやっと最後まで読了した。
 正直、全てを理解することはできなかったので、ぼんやりとしたことしか書けそうにない。
でも、どうやらわかったのは、「意識は存在しない」とする書き出しは少々言いすぎで、正確には「他人に意識があるかどうかなんて、自分には知りようがない」ということと、「自分がいままさに感じているこの感じ(意識)はどこまでも主観的なものなので、それを客観的には分析することはできない」ということの二つが言いたかったんだろうと思う(たぶん)。
実際、他人が何を考えているのかなんてわかりようもないのだから、それを極論すれば、他人にそもそも意識があるのかどうかも確かめようがない。自分がいつも話している人間が、実は人間ではなくロボットで、彼または彼女(もしくは機械なのだから‘それ’)は、ぼくが与えている音声情報や表情から、あらかじめプログラムされていた反応をぼくに返しているだけなのかもしれない。
これは別にSFでもなければ、哲学上の思考実験でもない。石黒浩、池田瑠絵の共著『ロボットは涙を流すか』(PHPサイエンスワールド新書)によれば、それはもうすでに技術的にも可能なことなのだそうだ。そして、この本の筆者は、意識なんていう定義もあいまいなものが実際に存在するかどうかなんて不毛な議論をするよりも、そこに意識があるように見えさえすればそこに意識があるということでいいではないかという結論にさえ達している。
たしかに世の中には、アニメの美少女に恋をする人だっている。それを馬鹿にする人もいるが、そういう人だって同じくテレビモニター上での虚構にすぎないテレビタレントのことをああでもないこうでもないと批評する。そうなってくると人間と機械の間にそこまでの違いはないのかもしれない。
それどころか、ぼく自身のことをいえば、いっそ人間なんてこの世界にぼくだけで、それ以外はみんながロボットであっても構わないと思う事がある。コンビニの店員なんてのは、確実にロボットでもできるだろう。また、それどころか友人や恋人だって、自分に都合のいい感じの人格にプログラミングできるならば、そっちのほうがよっぽど気楽でいいではないか。
そうなってくると、ロボットに意識を認めて人格を与える以上に、人間(他人)に意識があることを認めずに人格を無視したいという欲求のほうが、ぼくは強いのではないか。すると、ぼくはとんだろくでなしではないかという疑問がうまれて軽い鬱になったりしました。

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

著者:永井 均

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

ロボットは涙を流すか (PHPサイエンス・ワールド新書)

ロボットは涙を流すか (PHPサイエンス・ワールド新書)

著者:石黒 浩,池谷 瑠絵

ロボットは涙を流すか (PHPサイエンス・ワールド新書)

11月『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観ました。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』

点数:20点

1

表題:なんとなく過激で、なんとなく悲しい物語

90年代から2000年代の前半ぐらいまで、日本にはJ-POPというものがあった。
 当時10代だった僕も、それらの音楽を聴いて育った人間の一人であるが、今聞くとどうしてこんな曲が売れたのだろうと、不思議に思う事が多々ある。
 特にglobeなんかはまさにそうで、あんな病的なプロモと、異様なメロディ、そして何より歌詞がスゴイ。正直、何が言いたいのかよくわからない。
 それでも当時、ぼくはなぜかあの歌詞に共感していたことだけは覚えている。意味も良く分からない歌詞になぜか共感していた。あれはいったい何だったんだろう。
 本作を観て、ぼくはそんなことを思い出した。
 映画のほとんどがライブシーンのせいか、ストーリーは歌われる歌詞から推測するしかない。「魂のかたわれ」とかそういった抽象的というか寓話的な言葉からなんとなく、主人公が東ドイツ出身のオカマで、性転換手術の失敗からペニスが1インチ残ったままになっていること、かつて愛した青年は、彼女の作った曲で成功を収めているということ、そして主人公は青年をまだ忘れられずにいるという事などを推測できる。しかし、推測できるからといって、それじゃあ面白いかといえばそんなことはなく、ただなんとなく若者的なおセンチ気分が味わえるだけだ。
 もちろん、この映画の狙いはそこにあるのだ。映像の中では盛んに彼らのライブに眉をひそめる大人が写される。(普通に考えて、あの老人達はなぜ店を出ていかないのだろう。おれだったら単純にそうする)それはこの映画が大人には理解できないものであることを宣言したものであり、それと同時に若者といわれる年齢層の人間にだけなんとなくわかってもらいたいという意思表示でもあったのだと思う。
 だから、この映画はそういうなんとなくわかればいい映画で、そうであるがゆえにそれ以上に深い話ではない。
 もちろん、けなしているわけではなくて、むしろ最近はこういう若気の至りみたいなのはなくなって少しさびしい。どれもこれも実も蓋もないような話ばかりだ。
 最近の若者は、この手の映画を観たりするのだろうか?あの手の音楽を聞いたりするのだろうか?そもそも最近の中高生ってロックとか聞いたりしてるのか?そんなことをぼんやりと考えさせられた映画であった。

11月『サロゲート』を観ました。

『サロゲート』
点数50点
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感想:サロゲートは流行らないと思う
近未来、人間は外に出歩くことをやめ、代わりにサロゲートと呼ばれる身代わりロボットを遠隔操作するこで社会生活をするようになる。元々は体が不自由な人が、自宅に居ながら円滑な社会生活を営めるようにと開発されたサロゲートではあったのだが、しだいに普通の人もサロゲートを利用するようになる。たとえば、容姿に恵まれない人でも、容姿端麗なサロゲートを自分の身代りにすれば、容姿端麗な人生を手に入れることができる。また、サロゲートに身代わりをさせておけば、自分自身は自宅に居続けることができるのだから、路上で暴漢に襲われてもサロゲートが壊れるだけで自分の命がとられる心配はない。つまり、防犯上も有利である。
『ロボットは涙を流すか』という本で紹介されていて興味をもったのだが、その本によれば、このサロゲート自体、技術的にももうあと一息で可能なのだそうである。
だが、ぼくが思うに、映画でいわれているほど、このサロゲートというロボットが社会に浸透するかどうかはかなり疑問が残る。
まず容姿や防犯のためとはいえ、そう簡単に人は家にひきこもるものなのだろうか?いくら安全だとはいえ、年中家のソファーに座りっぱなしというのは相当精神的にも肉体的にも苦痛だろうと思う。
また、3歩譲って、人びとがサロゲートを積極的に受け入れたと仮定したとしても、疑問は残る。それは身代わりロボットが文字通り身代わりのままで、けっして操作している本人以上の能力を搭載することがないということである。たしかに、映画のなかではハゲのおっさんが金髪美女のサロゲートを身代わりにしていたり、老人が若者のサロゲートを身代わりにしていたりということはある。しかし、それならなぜ高速の計算機能を搭載したサロゲートや人間の数倍の速度で移動できるサロゲートはつくろうとしないのであろうか。いや、もっと核心的なことを言えば、主人公を含む警察組織なんかも、サロゲート同士をインターネット回線かなにかでつないで情報共有するような仕掛けをつくることができれば、もっと素早く犯人を逮捕できたであろう。
このようにこの設定には多くのつっこみどころがある。これは別にけなしているわけではなくて、それだけこの設定は魅力的な問題をはらんでいるということである。映画ではこの設定自体はすでにあるものとして、その上で物語が展開していった。しかし、個人的には、この設定にいたる過程を観たかった。人類がいかにしてサロゲートにはまっていったのかをぼくに納得させてほしかった。そうすれば、ラストのシーンももうすこし爽快な気分でみれたような気がしました。
 ちなみに『ロボットは涙を流すか』(PHPサイエンスワールド新書)を読んでから本作を観ると、読まずに観るより1.5倍ぐらい楽しめます。ちょっとオススメ。

10月 神田古本まつりに行きました。

 北杜夫が死んだ。

 そのこと自体も僕にとってはショックであったのが、それ以上にショックだったのは、想像以上に新聞紙上での扱いが小さかったことである。

 少なくとも自分の世代ぐらいまでの大抵の読書人は、中1のころに、北杜夫か星進一のユーモア小説を読んで育ったはずである。実際にアンケートをとったわけではないのだから間違っているかもしれないが、個人的な実感として当時は誰もが読んでいたと思う。

それなのに、たとえ小さくではあれ新聞の一面を飾らないのはどういう事だ?

確かに、ここ10年くらい、北杜夫はほとんど小説自体書かなくなっていた。また、時折軽いエッセイ集が出版されることはあっても、そこには「早く死にたい」なんてことばかりが書き連ねてあっていて、一読者として北杜夫の新しい小説を待ち望むという気持ちにはなれずにいた。

ただ、たとえそうであれ、やっぱり個人的にはリアルタイムで読んだ作家(有名人)の一人が死んだことには変わりなく、それは悔まれることであった。

話は変わるが、今年も神田古本まつりに参加した。毎年恒例の蔵書印を作成し、毎年恒例にキッチン南海が日曜日は休みであることを確認し、さらにまた毎年恒例に古本屋めぐりも実行した。

そして、またまた毎年恒例に、僕が思ってしまう事は、結局のところ神保町に、僕の買いたい本は存在しないということである。

神保町にある本というのは、大抵2種類に分けられる。1つ目は太宰治の『晩年』のサイン入り初版本(ウン十万円)のように、本というよりももはや骨董品のとして売られている本。こういうのはいうまでもなく、僕は買わない。本は読むためにあるからである。

もうひとつは、『人間の壁(上・中・下)』(300円)のように、すさまじくマニアックな本。こういったものの中には、題名や筆者名はもちろん、出版社すら良く分からない本というのもよくある。なかには「なんじゃこりゃ?」と思えるような奇抜なタイトルの本もあり、若いころは性格的についつい購入してしまうこともままあったのだが、そういうふうにして購入したもので面白かったためしは全くない。よくよく考えれば、つまらないからこそ絶版になったわけなのだから、面白くないのは当たり前のはなしであるが、若いころはそれに気づかず、ついつい「隠れた大傑作!」みたいなのを期待して、よく痛い目にあったものである。

そして、結局、本は新刊で(しかもネットや雑誌での評判がいいものを)購入するのが一番であるというごくごくあたりまえな、言いかえれば身も蓋もないような結論に毎年恒例に辿り着くのである。

古本まつりが終わると、もう年末へのカウントダウンが始まる。風は冬へと足早に駆け込み、人びとは冬支度を始める。そうやっていくつもの冬が過ぎ、時は流れて、人は死ぬ。それはあまりに明白で、身も蓋もない事実であるが、身も蓋もないが故に絶対的である。それ以上のことを文学に求めることは酷というものなのかもしれないね。

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10月『マトリックス』を観ました

マトリックス マトリックス (1999)

【監督】アンディ・ウォシャウスキー / ラリー・ウォシャウスキー
【出演】キアヌ・リーブス / キャリー=アン・モス / ローレンス・フィッシュバーン / ヒューゴ・ウィーヴィング / グローリア・フォスター / ジョー・パントリアーノ / マーカス・チョン / マット・ドーラン / ベリンダ・マクローリー / レイ・パーカー / キアヌ・リーヴス / ポール・ゴダード / ロバート・テイラー / ジュリアン・アラハンガ


★ [20点]「ただのB級映画」

もう10年以上前の映画である。
当時、俺は田舎の高校生だったが、それでもテレビや雑誌などで、かなり大々的に宣伝されていたことを覚えている。
なんでも、画期的なCG技術や撮影手法がとりいれられていて、まるでアニメのような動きを再現することが可能になったとかなんとか…。
今思えば、アニメのような動きが観たいなら、はじめからアニメをみればよいだけの話なのだが、当時それはかなり衝撃的なことで、
主人公のネオがのけぞって弾丸をよけるシーンなんかはさんざんテレビ番組などでパロディされた。
また、この映画以降、洋画邦画問わず、軽いアニメの実写化ブームが始まり、とにかく「いかにアニメの動きを生身の人間で再現するか」が映画に求められるという異様な事態にまでおちいったこともよく知られている。
そんな記念碑的な作品なのであるから、一度は観ておこうと思い鑑賞してみました。
しかし、そんな期待が高すぎたのか、結論からいえば面白くともなんともない映画でした。
あず前半はMATRIXという世界観の説明が延々と続く。しかも、セリフがあまりに禅問答じみていて、いちいち話がまわりくどい。要約すれば10分もかからないであろう説明に結局1時間を浪費してしまっている。
そして、問題の後半部だが、今観てしまうと、カンフーの動きはいかにも不自然だし、CGも2011年の技術からみると至る所にぎこちなさが残る。たとえば、ラストに主人公のネオと敵役のエージェントがバトルを繰り広げるシーンがあるのだが、ひとつひとつの動作にいかにもなムダ動きが多すぎて観るに堪えない。(当時はそここそがアニメみたいで面白いといわれていたことを考えると時の流れとは皮肉なものである)
また、最後にこれだけは言っておきたいのだが、これはSFではない。どれだけ世間でSF大作だと喧伝されようとそれだけは間違いない。
確かに、この映画では前半一時間を、世界観の説明で費やされる。そこでは機械と人間の戦争がどうのとかプログラミングがどうのといったなんだか理系っぽい話が展開される。しかし、後半のバトルシーンではそれらの設定がすべて台無しになる。まあ、この2時間映画の結論を一言で要約すれば、「根性さえあればなんとかなる」ということになるのだろう。
Posted by さっきー on 2011/10/27 with ぴあ映画生活

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